普段、勉強 という言葉をよく使いますが、もともと勉強という言葉は商売等で使っていた言葉のようです。
これ以上値段を負けることができないという状況において、そこを無理して値引きしてほしいと言うのを
強いて勉めることで、勉強と言葉で使っていました。
勉強しま~~す 引っ越しの○○○ ♪♪ ってありましたね 笑
いわば、無理強いすることです。

明治以降学びの対象は漢文から西洋の言語英語へと変わっていきます
当初は漢文のように英文を単語ごとに縦書きし
そのまま読んで英語を理解するという学習方法だったようです。
これが一般の人にはとても難しく(当然ですよね)
それゆえに英語を学ぶイコール勉強をイメージするようになったと言われます。
さすがに途中で英文を一二点やレ点で読み返すような読み方はなくなりましたが
これ(英語)ができないと上級学校へ入れない。受験の大変さはこの時代から始まったようです。
そんな経緯があるので
学ぶことに対して、勉強という言葉を使うのに個人的には少し抵抗があるのです。

普段教室は学習とか学びという言葉を使っています。
学習というのは学び習うことつまり学んだらヽ練習して覚えることです
学びて時に之(これ)を習ふ、亦(また)説(よろこ)ばしからずや(論語)
では、学問という言葉はどうでしょう?
学習に比べるとよりアカデミックな感じがしますね
学んだら、これはどんな意味か考えてみる。どんな役に立つのか?どのような経緯でできたのか?
自分なりに問うということが付加されます。
まさに学びの本質ですね。
学ぶだけでなくまた習うということではなく
学んだことに対して自ら問いかけていくという
積極的な姿勢こそ大切なのではないでしょうか。
そんな意味合いを持った『学問』という言葉、個人的には好きです。
「学問」の語源
易経 「文言伝」
君子は学もってこれを聚(あつ)め、問もってこれを辯(わか)ち、寛もってこれに居り、仁もってこれを行なう。
「これ」とは「徳」のことです。学ぶことによって徳を身に付け、問うことによって是非を分別し、寛大な心で身を処して、思いやりで実践する。
お隣の国に、これは無いように思うのは僕だけじゃないよね
